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【書評】もう理不尽に耐えくていい。『自発的隷従論』が私達に教えてくれたこと。

もうすぐ、選挙ですね。

自分の望む社会とは何か、誰がそれを叶えてくれるのか…改めて考えるチャンスです。

さて、このタイミングで出会えてよかった!と思える本があったので、皆さんにもご紹介したいと思います。

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

 

政治信条は人それぞれですが、どんな方にも一度は読んでほしい。心からそう思える本なのです。

▶概要

今の日本を言い当てる

『自発的隷従論』を書いたのは、16世紀フランスの法務官エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ。

そんな数百年も前の本に、なぜ感銘を受けたのか。それは、あまりにも日本社会を見透かすようでドキリとしたからです。

今の日本で起きている異様な事態――公文書の改ざん、不可解な用途に投入される多額の税金、批判精神を失ったメディア、過重な労働と税金、こういった理不尽さを「仕方ない」と甘受する私達、そして約半数の有権者による投票の棄権――私がながらく理解できずにいたこれらの問題に、この本はズバリと答えてくれたのです。

夭折の天才が10代*1に書いたこの本は、支配―被支配の関係を通常とは真逆の視点で描いています。

歴史上の特定の事件を想定することなく、あくまで普遍的な命題として「支配」の構造を解体するスタイル。だからこそ、本国フランスで読み継がれてきたのでしょう。

 

要旨

さて、本文の要旨は次のとおりです。

  • たった一人の人間(=圧政者)に大勢が支配されてしまうのは、本来なら不自然なことである。
  • それでも強力な支配が実現するのは、被支配者の自発的隷従に圧政者が依存しているからだ。
  • 従って、圧政に抵抗するには、「不服従だけで十分である。武器も反乱も必要ない。
  • 習慣化によって、あたかも本来の性質のように、隷従状態が人間に染み付いてしまった。しかし、実は自由こそが本来の姿である。

 

▶支配者は被支配者に「依存」している

では、彼が解剖して見せた支配の構造を詳しく見てみましょう。

通常私達は、権力による統治について

  • 支配者が強力すぎて、市民には到底太刀打ちできない
  • だから大人しく従うのが賢明だ

と考えがち。そして、逆らった場合のデメリットを考えると、どんな理不尽にも「泣き寝入りするしかない」と考えてしまいます。

しかし、ボエシは真っ向からこれを否定します。彼の考えを端的に示す箇所を、いくつか引用しましょう。

 

市民のガマンが権力者を助長する

その者(=圧政者)の力は人々がみずから与えている力にほかならないのであり、そのものが人々を害することができるのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからにほかならない。

その者に反抗するよりも苦しめられることを望むのでないかぎり、その者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。(本文p.11。改行、括弧内および太字はブログ管理者による。)

 

「習慣」が人間を奴隷化する

たしかに、人はまず最初に、力によって強制されたり、うち負かされたりして隷従する。だが、のちに現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。

(中略および要約:だから、隷従状態のもとで生まれた人間は)もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだしたもの以外の善や権利を所有しようなどとはまったく考えず、生まれた状態を自分にとって自然なものと考えるのである。(本文p.35。同上。)

これは、消費税に対する世論の反応を見れば頷けます。

1989年より以前、日本に消費税は存在しませんでした。しかし導入されるや否や、それが「当たり前」となってしまい、増税に不満を言いながらも「仕方ない」と受け入れています。

実際には、徴税そのものに疑問を持つ機会はいくらでもあるはずなのに。

 

大勢の中間的支配層が支配体制を強化する

圧政者を守るのは、騎馬隊でもなく、歩兵団でもなく、武器でもない。にわかには信じられないかもしれないが、(中略)圧政者をその地位にとどめているのは、つねに四人か五人の者である、彼のために国全体を隷従の状態に留めおいているのは、ほんの四人か五人の仕業である、ということだ。(中略)

まず、五、六人の者が圧政者の信頼を得る。(中略)この六人は、みずからのもとで甘い汁をすう六百人を従え、自分たちと圧政者との関係と同じような関係を、彼らとの間に築く。そしてこの六百人は、六千人を登用し、所領の統治や租税の管理に当たらせる。(中略)

この糸をずっとたどってみれば、圧政者とこのような絆によって結ばれている者の数は、六千でも一万でもなく、何百万にものぼることがわかるだろう。(本文pp.66-67。同上。)

これは日本の社会構造を見ても明らかでしょう。

少数の有力政治家、その指示で動く官僚機構。彼らにぶら下がる数多くの団体、企業。そして、彼らの決めたルールのもとで生きている私達市民。

さらに視野を広げれば、グローバル社会の構図とも重なります。ごく少数の強国、そして彼らに従う以外に存続の道がない(かのように見える)その他の国々。このあたりは、西谷修氏による解説に詳しいため割愛します。ぜひ、ご一読下さい。

 

▶身近な隷従の例

さらに自分の周囲を見渡すと、日々の生活にさえこういった精神支配が食い込んでいることに気付きます。ごく一例を挙げてみましょう。

 

常識や社会通念

  • 「政治や宗教の話題は避けるべき」
  • 「女性は子供を産んで当たり前」
  • 「子供は親の言いつけを守れ」
  • 「学校には必ず行かねばならない」

 

政治的思想

  • 「与党批判は無益である」
  • 「デモをしても無駄だ、むしろ迷惑だ」
  • 「政府の決定は、どうあがいても覆せない」

 

無意識に習慣づけられる私達

これらは一見正しいように見えて、実のところ(思想や立場、置かれた環境etc.の)「多様性」という人間社会の大前提を無視しています。そのうえ、発言者その人の利害と相反することも少なくありません。

それでもこの手の言説が根強いのは、ボエシの言う「習慣づけ」があまりに強力であり、かつ日本古来の排他的精神性(異端者は村八分)・封建的価値観(おかみに楯突いてはいけない)と非常に相性が良いからだと私は思います。

支配層にとって好都合なこれらのロジックは、親から子へ語られることでコミュニティに定着。やがてそこで育った人たちは、価値観の異なる人間を異端として排除し*2、この見せしめ行為が周囲の服従心を強化します。こうやって、隷従状態は切れ目なく継承されていくのです。

 

▶自由になるために何ができるのか?

さて、このような自発的隷従に束縛されている私達ですが、本来の自由な状態に近付く*3には一体どうしたらよいのでしょうか?

私は、日常生活レベルで実践できることとして、下記の3つを挙げたいと思います。

  1. まず、疑うこと(常識、報道、政治家の発言etc.)
  2. 与えられた権利を行使すること(投票、パブリックコメント提出etc.)
  3. 身近な人と自分の疑問について話すこと(家族、友人、ママ友etc.)

 

権利は行使して初めて意味を持つ

この中でいま特に強調したいのは、2.「与えられた権利を行使すること」です。

政治学者の丸山真男は、「"自分には権利がある"という事実に安心し、行使せずにいると、いずれ有名無実化してしまう」と言いました*4。これはまさに、「投票権」という民主主義の根幹を放棄する日本人の姿とぴったり重なります。おおやけにNOを訴える権利は、18歳になれば手に入るにも関わらず、行動を起こさないために自分を不自由の檻に閉じ込めているのです。

 

▶最後に

2019年参院選の投票日まで、あと数日。投票案内状も選挙公報も、すでに配布されました。

みなさん、自分の置かれた状況をもう一度考えてみませんか?

そして、自分の望む生き方や社会とはどんなものなのか、少し想像してほしいのです。

それは、今の政治で実現できるだろうか?

自分の希望を後押ししてくれるのは、一体誰だろうか?

その答えがどんなものであろうと、誰も否定はできません。内心は自由であり、誰に投票しようと、もしくは棄権しようと、罰することはできないのです。

ただ、たった5分でも10分でもいい。考える時間を持ってほしいと、心から思います。

 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

 

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー)

 

 

*1:16歳とも、18歳とも言われています。詳しくは本書の解説参照。

*2:上掲書収録のピエール・クラストルによる解題『自由、災難、名づけえぬ存在』pp.219-220参照。

*3:上掲の解題pp.205-207では、「支配」と「被支配」という区別が国家の構成要件であること、そして一旦ある社会が非国家(=支配を拒絶する社会)から国家に移行したとたん、逆戻りはできないことが指摘されています。これが事実であるとすれば、国家のもとで生きる以上、完全な自由を勝ち取ることは不可能に思われます。しかし、かと言って諦めては隷従状態を脱することはできません。そのため、さしあたり「隷従状態を自覚し、一つずつ捨て去ってゆくこと」を「自由な状態に近付く」と表現したいと思います。

*4:丸山真男(1961)『日本の思想』pp.154-155参照。