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【書評】葛藤と融和の記録。『あの日のオルガン 疎開保育園物語』

子どもを守るために戦った「もうひとつの」人々

あの日のオルガン 書評

ちがう立場に目を向けることで、はじめて現れる「物語」があります


皆さんは「疎開そかい」のことをどのくらいご存知ですか?
戦時中、都会から地方に逃れた人々のことを、これまでたくさんの物語が取り上げてきました。しかし、保育園のまるごと疎開に挑んだ人たちのことはあまり知られていません。
今回は、この苦しみと努力の記録『あの日のオルガン 疎開保育園物語』をご紹介します。当時の食糧事情をひもとくと、単純に「感動」では言い表せない葛藤が見えてくるのです。

あの日のオルガン 疎開保育園物語

あの日のオルガン 疎開保育園物語

 

疎開のなか、子どもたちは

被害を最小化するために

そもそも疎開とは、空襲などの被害を抑えるために人やモノを分散することです。
首都圏などの人口密集地では、いったん空襲があるとたくさんの被害が出るため、あらかじめ建物を壊す「建物疎開」や子どもたちを安全な場所へ逃がす「学童疎開」が行われました。
こうした状況下で幼稚園・保育園がどのような扱いとなったか、矢治夕起さん(2014年2月)の研究は細かく記しています(以下、青字部分は同論文を参照)。

 

都会に残された子どもたち

戦況の悪化とともに、東京では幼稚園に対し休園・閉鎖・または「戦時託児所(=保育園)」への転換を要請。
また、全国でも臨時の保育施設が増えていきました。これは、軍需工場などで働く女性労働者を確保するためです*1
つまり、小学生たちが地方へ疎開してゆくなかで、保育の必要な子どもたちは都会にとどまることとなりました。その状況に危機感を感じ、困難をかえりみず断行されたのが「保育園の疎開」だったのです。

 

人智を超えた苦労

子育てという仕事の大変さ

保育園をまるごと疎開する。
その仕事の過酷さは、「24時間子どもにつきっきりである」という点だけを考えても、おおよそ想像がつきません。
現代であっても、仮に衣食住が整っていてさえ、たった1週間わが子とふたりきりになるのすら相当な負担なのです。
ましてや戦時中なら、その苦労はどれほどのものだったでしょうか。

 

モノも人手も足りぬなか

保育園疎開が行われたのは1944年。当時は終戦の前年で、食糧や物資の不足が日常化していました。
50名前後もの児童をたった10名ほどの大人で面倒を見る*2、しかもいつまで続くかわからない…この状況の過酷さは、たとえ戦争という非常事態だとしても「人智を超えている」と言わざるをえません。
本著には随所に「逃げたくなった」「一人になりたかった」という保育士の心境が吐露されています。負担の大きさ、モノの乏しさを考えれば、ごく自然な心の叫びでしょう。

 

受け入れ側の苦闘

食べ物をどうするか

一方で、忘れてはいけないことがあります。
それは、疎開する側がいればそれを「受け入れる側」がいるという事実です。
疎開保育園が置かれたのは、埼玉県南埼玉郡平野村字高虫たかむし(現・蓮田はすだ市高虫)。そこの妙楽寺というお寺*3に、子供・大人ふくめ約70人が身を寄せることになりました。
「ガスもなければ水道もない、十二月だというのにガラス戸もない」*4荒れ寺とはいえ、住む場所はなんとかなる状況。問題は、食料でした。

 

地元の人たちの決断

これほどの大人数をまかなうだけの食べ物を確保するにあたって、保育園側が苦労したのはもちろんです。しかし、「ほしい」と言う人がいれば「あげます」と引き受ける人がなければいけません。
疎開保育園の場合、食料の要請にこたえる決断をしたのは地元・高虫の人たちでした。
彼らの苦労について、本著は多くを語りません。これは疎開した側の視点で書かれているため当然のことですが、当時の食料事情を調べると並々ならぬ苦労が少しずつ分かってきます。

 

食糧統制のなかで

「輸入ありき」政策の破綻

戦時体制下の食糧事情とはどのようなものだったのか。松並信久さん(2018年)*5は、外国米に依存した食糧政策の破綻と、みるみる増してゆく市民・農家への負担を克明に記されています(以下、青字部分は同論文を参照)。

 

大干ばつ、そして直接統制へ

もともと国内で消費するコメを朝鮮や台湾からの輸入(移入)にたよっていた日本ですが、1939年の「朝鮮大かんばつ*6」により状況が悪化。
これをきっかけとして、1942年の「食糧管理法」下で政府による食料流通の直接コントロールが始まりました。
自由なコメの売買はもちろんのこと、農家が自由に作物を作れない「作付け統制」も開始。こうして、徐々に食べ物に関する自由は奪われていきました。

 

供出の強化

そして、1944年。
戦況の悪化により、朝鮮以外からのコメ輸入ルートも寸断。配給も遅れ気味となり、やむにやまれず「買い出し」(=農家での物々交換。もちろん規制対象)にはしる市民が激増しました。
そして、コメを国内農業に頼らざるをえなくなった政府は、農家に重い「供出」(政府への売り渡し)の負担を課すようになったのです。

 

農家でさえ食べ物に苦しむ

農家が作ったコメは、自宅で消費する分以外はすべて供出。しかも、その自家用分でさえ、のちに供出が求められるようにもなりました。
このように、農家さんたちでさえ食料に事欠く状況だった1944年当時。ましてや規定ルート以外でコメ・芋などのやり取りが禁じられていた時代、高虫の人たちにとって、「保育園に食べ物を届ける」という仕事は容易ではなかったはずなのです。

 

どうやって保育園に食糧を?

当時の手がかりはなく…

一体、この状況下でどうやって保育園に70人分の食料を届けたのか?
私が調べた限り、これについてはっきりしたことは分かりませんでした。
本著から把握できるのは、平野村の人々を中心に「疎開保育園援護会」がつくられ、物資の調達を支えたこと*7
そして石井さんという方が代表世話役となり、地元農業会からの調達交渉にあたられたことなどです*8

 

イモ、野菜、そしてわずかな米

こうした人々の支えで、園には主食のサツマイモ(サツマイモも統制作物だったので自由に買えたわけではありません*9)や野菜(大根や人参など)が届けられました。
また、お米や油の配給もわずかながらあったことも綴られています*10
手がかりを求めて蓮田市役所に確認したものの、残念ながら事情を知る人には辿りつけませんでした。

 

農家も必死だったはず

こういった状況ではありますが、本の内容と当時の情勢を合わせて考えれば、ただ一つ言えることがあります。それは、受け入れ側である高虫の人たちも、決して楽ではない状況で支援を行っていたということです。
本著には、農家の子供たちのお弁当には白いご飯(銀シャリ)が詰まっていた一方で、イモや野菜ばかり食べている園の子は栄養失調になってしまう*11というつらい状況も記されています。
ここだけを抜き出せば「格差」がクローズアップされてしまい、理不尽さや同情を感じてしまうのも事実です。

 

生活と支援のあいだで

ただ、あたりまえですが、農家の方々にも「自分の生活」がありました。
徐々に厳しくなる供出の負担や「農業警察」*12の取り締まりのなか、ギリギリの状態で、できる限りのことをされていた。
これが、実際のところではないでしょうか。

 

2つの視点

複雑なテーマから目をそらしたくない

ものごとには、必ず複数の側面があります。
「疎開する人」の視点で描く物語・手記はいくつもありますが、私が「疎開を受け入れる人」について考えたのは、これが初めてでした。
そして、異なる2つの立場を同時に考えることで、はじめて見えてくるものがあります。
対立、葛藤、善意、そして融和への努力。これらは複雑に絡みあうため、苦しみや感動といったインパクトの強いテーマの脇に追いやられがちです。でも、真実を見ようとすれば、こうした側面から目をそらすことはできません。

 

歩み寄りと共存

疎開保育園の人たちは、地元で「消費班*13」=何も生産せず、ただ食料を消費するだけの者と呼ばれていたとおり、地元においては「お荷物」扱いされていました。
しかも、彼女たちは都会から来たヨソモノです。さぞかし、受け入れる側の戸惑いは大きかったことでしょう。最初から親しく、波風立てず…は難しいはずです。
それでも、善意ある人の支えによって食料が提供され続けたこと。そして、保育園側も農繁期に子供を預かるなど*14、その土地に溶け込む努力を重ねたこと。こうした歩み寄りによってなんとか共存できていたことが、本書を通じて見えてきます。

 

二項対立では語り尽くせない

戦時中、疎開先で苦労を強いられた人たち。そうした人々の体験は、私が想像できる範疇をはるかに超えています。どんなに資料を当たっても、生身の苦しみを自分のものとして感じるには至りません。
同時に、戦争があらゆる立場の人を巻き込んだという事実を考えれば、「敵ー味方」、「被害者ー加害者」といった二項対立では語りつくせない「ともに生きること」の側面を考えずにはいられないのです。

 

わが子にも読ませたい本

『あの日のオルガン』では、ほかにも保育士さんの職業観や子どもたちの様子、リアルな空襲の記録などが描かれています。子を持つ者として、胸が苦しくなる場面が多々ありますが、それでも「読んでよかった」と思える本です。いずれ、わが子にも読ませたいと考えています。
「戦後」と呼ばれた日々が遠ざかり、当時を直接知る人たちと接する機会が少なくなった現代。そんな時だからこそ、こうした本を手にとる意義は大きいはずです。
人間くさいドラマを通して、はじめて理解できるものもある。大きな学びを与えてくれたこの本に、感謝の気持ちでいっぱいです。

 

※書評化にあたり、出版元である朝日新聞出版から要約紹介・写真掲載のお許しを頂きました。
また、ヒアリングにご協力くださった蓮田市役所の皆様にお礼申し上げます。

*1:矢治夕起(2014年2月)

「昭和戦中期の戦時託児所について ― 幼稚園から戦時託児所への転換事例 ― ①」淑徳短期大学研究紀要第53号 p.1-2。

*2:

『あの日のオルガン 疎開保育園物語』p.135参照。

*3:上掲書 p.17

*4:上掲書 p.135

*5:松並信久(2018)「戦時体制下の食糧政策と統制・管理の課題」京都産業大学論集 社会科学系列 No.35

*6:干ばつ=長いあいだ雨がふらず、作物が育たないこと。

*7:上掲書、p.39-40

*8:上掲書、p.123。また、p.173には農業会が各地区の出荷割当を作るなど、園への食料供給に非常に協力的だったことも書かれています。

*9:

www.i-manabi.jp

2020/2/28閲覧。

および松並(2018)p.35

*10:上掲書、p.171−172

*11:上掲書、p.228−229

*12:松並(2018)p.39。食糧検査所のこと。1944年、供出の強化や農家による不正流通を取り締まるため大幅増員された。「農業警察」は松並さんの表現をお借りしました。

*13:上掲書、p.225

*14:上掲書、p.222以降